サットンプレイスホテル上野

会社の試験勉強のため、家だと遊んでしまうので、と理由を作ってお泊まり。

JR上野駅入谷口から2ブロック。
途中にファミリーマート有り。
agodaで2泊7,900円。


部屋に入って直ぐオープンな水回り。バスルームはベージュのタイル、部屋はフローリング。
部屋も広めで、テーブルも長くて使いやすい。
ビジネスホテルに泊まるなら上野、今楽しげなホテルが多いよね。

共有のキッチンやランドリーもあってマンスリー対応しているので外国人の住人らしき人も。
10万円で家具付きインフラ有で上野に住めるなら悪くないかも、と思ってしまった(笑)

父の誕生日に思うこと

まさか、父がいなくなってから半年で母もいなくなるとは思わなかった。

7月22日。父と同じ水曜日だった。
母はまだまだ生きるつもりだった。

「いつまでここ(ベッド)にいればいいのよ」
「はやく帰りたい」
「そとに行きたい」

ずっとそう言っていた。
お腹が減ったとも。

亡くなる前日には理学療法士の先生が来て、車椅子でだけれど外に行けるようにはなると言ってくれた。

介護車両や車椅子のレンタルしなきゃと言っていたのに、間に合わなかった…


父はどうやら母にベタ惚れだったのではないかとわたしは思う。そんなことを思うようになったのは父が亡くなってからなのだが…

だからと言って母を呼び寄せるようなことをする父ではないことも知っているので、なぜ母はこんな早くに父のところに行ってしまったのか…

もしかしたらこれ以上過ごしていたら痛みや寝たままであることが辛くて耐えられなくなるところだったのかもしれない。
だから仕方なく母は行ってしまったのだろう。

結果、父は誕生日を母と過ごしているに違いない。
子供抜きで。夫婦で。のんびりと…

お誕生日おめでとう。

父の旅立ち

1月8日の早朝、父は眠りについた。

周りからは、ずっと家で過ごせてお父さんは幸せだった。あなたたちは親孝行をした、と言われた。

本当にそうだったのか…

父は以前から

自転車に乗れなくなったら終わりだ

2階に行けなくなったら終わりだ

寝たきりになったら施設に入れてくれ

延命、葬式、戒名、墓はいらない

何度も言っていた。

たぶん6月ごろには自転車には乗っていなかった。

7月、父を置いて福井に行ったときもたぶん調子は良くなかった。

8月、私が戻ったときだいぶ辛そうだった。

9月はほぼ2階で寝ていた。それでも、階段がリハビリになるから、と言っていた。

10月初め、介護ベッドが来た日は、直ぐにはベッドに来なかった。やっとベッドに寝て「極楽だ」と言っていた。
ずっと2階の布団で寝ていたけれど、強がっていたのだ。

10月の2週目、門から玄関までに手すりが付いた。結局父は手すりに触れることはなかった。

2週目、食事は減り、それまで導尿バルーンは自分で処理していたが私に申し訳なさそうに任せるようになった。プライドの高い父には辛いことだっただろう。

3週目。悪夢の風呂。
初めての訪問看護師さんが来る前日。風呂に入ろうとした。
風呂までは何とか歩けたが、入ってすぐに「出る」と。
そして歩けなかった。怖かった。175センチある父はガリガリだったけれど、私には支えることは出来なかった。
たぶんベッドに戻るまでに1時間はかかったと思う。
ベッドに生き絶え絶えでたどり着いた父の背中を母はずっと撫でていた。

それから数日後に私が朝起きると父は
「あんたが起きるのを一日千秋で待ってたよ。喉が渇いたんだ」
父は水を飲みに行くことも出来なくなっていた。

父は本当に寝たきりになってしまった。

11月、訪問医に胃ろうにしなければ父は餓死する、と言われた。父は望んではいない。医師を変えた。
折衷案で、と父を説得して中央静脈栄養のためのポートをつけた。たぶん父は不本意だったろう。
氷のみをやっと口にするようになった。

12月にはほとんど氷も食べなくなった。せんもうも出た。
中頃には浮腫みも出た。

12月の、終わりには肺に水が溜まるようになった。
結局私は父を溺れさせたのだ。

もうあかん、ダメだ。死にそうだ。もう十分だ

父はそう言っていた。

1月8日。私は眠っていた。
姉が私を起こしに来た。

パパが息をしていない。

泣きながら父を呼び、大好きだよ、ごめんなさいと伝えた。

私は無理やり父を引き止め過ぎた。父は黙って耐えてくれた。私のわがままに付き合ってくれたのだ。
それでも私にはこれっぽっちも覚悟が出来ていなかった。

葬式はいらない、と言う父にちょっとだけ逆らって、葬祭場を借りて、一晩父と過ごし、叔父、叔母、いとこ9人で父を見送った。

棺の中の父は、長年着ていたストライプのシャツと、6月に買って本の数回履いたユニクロのデニム、普段被っていた帽子を手にしていたが、髪型が…葬儀屋さんでカットされた髪は父なら絶対しない七三分けで…

それを見て変な話だが「父はもう居ないんだな」と覚ることができた。

夜、家の中外の写真をプリントしたものに父へのメッセージを書いた。父への感謝と謝罪とを。父の守ってくれた家の思い出を。
祭壇には父の作った仏像を飾り、写真を置いた。

そして父は骨になった。

父はやっと自由になった。
健康な体になり、新しい旅に出たのだ。

私はまだ父が恋しいけれど、父は充分私に付き合ってくれたのだ。父は本来の自分を取り戻したのだ。

本当に家族思いの優しい人だった。

母、卒 ドライバー

もともと2年ほど前から運転はしていない。
でも、運転が好きだった母は免許を更新していた。
今年がまた更新だ。
更新しても、運転させるつもりはなかった。
ただ、持っていることが嬉しいのだろう。

でも、今日眼科に行ったら、白内障のため視力が0.3しかないということで終了。

こんな終わり方か。

子供のころから母の運転で色々なところへ連れていってもらったな。
そもそも教習所にもくっついて行ったんだった。

社会人になっても、会社に行くのが辛くて電車に乗れなくてってときに送ってもらったこともあった。
甘ったれだ。

軽自動車で福井の祖母の家まで行ったこともある。

数年前は私のラパンで福井から交代で運転して帰ってきた。

長い長い間、母ドライバーにお世話になった。
ありがとう。

そして父ももう運転することはないのだろう。

私が何処へでも連れていくよ

医者って…

最近ちょっとは食べるようになっていた。
来年の話をしたり。

月曜日に診療所へ。
レントゲンを撮りそこの院長の言葉

「たった2ヶ月でこんなに悪くなっている」
「こことか、こことか…」
「悪くなることはあっても良くはならない」
「出掛けたいなら車椅子使って」


3ヶ月、安静にすれば。
そう思って耐えてきた父。


診療所から帰ってからは起きている時間が減った。
食事も減った。

「もういいんだよ」
「すーっと逝きたい」


真実はそうなんだろう。

期待はしていない。
でも、ほしかったのは希望。
励まし。頑張れる気持ち。


根こそぎにされた。
こんなんでも、立派な全国ネットの在宅医療ネットワークNPOの会長なんだって。

ありえない。

昨日、今日と声に力が

最近ずっと父の声が弱かったのに、昨日今日と割りと普通の声量に戻った気がする。
ただ、この暑いのにトイレが近いのを気にしてか、水分をあまり取らないのが気になる。

今日はちょっと母の方が元気がないなぁ。


9月1日から介護休職することにした。
2ヶ月の予定。
さて…お金の問題がちょっとね。
浪費家なのは変わらないから気を引き締めて…住宅ローンとリボ払い(手を出したんだよなぁ。バカだ…)に望まねば…

父と長年通った病院との別れ

昨日、父を大病院の整形外科へ連れていった。
そのついでに、緩和ケアへの紹介状を受け取りにもとの科へ足を運んだら、顔見知りの看護師さんから「ちょうどよかった!話をしたいけと良いかな?」と。


「なんだか、見捨てられたように感じてるいるのではないかとずっときになっていて」

確かに。新しい担当医のかたは、緩和に移る患者だからあくまで自分は最後のカテーテル交換をするだけで、特に診察も何もないですから、というスタンスがありありとしていて、父は、新しい視点でのコメントなりを期待していたのが「微笑んで沈黙」というかなり残酷な返しを受けてショックだったようだ。

なせ微笑み?
なぜ沈黙?

必死にすがる人間に向かってなぜ?

そこが悲しかった。
もう充分、とずっと言っていた父のそれでも生きたいという気持ちがヒリヒリと感じられた。
辛かった。

圧迫骨折が治ったらやらなければならないことがまだ二つ三つあるそうだ。
ぜひ。叶えて欲しい。