父の旅立ち
1月8日の早朝、父は眠りについた。
周りからは、ずっと家で過ごせてお父さんは幸せだった。あなたたちは親孝行をした、と言われた。
本当にそうだったのか…
父は以前から
自転車に乗れなくなったら終わりだ
2階に行けなくなったら終わりだ
寝たきりになったら施設に入れてくれ
延命、葬式、戒名、墓はいらない
何度も言っていた。
たぶん6月ごろには自転車には乗っていなかった。
7月、父を置いて福井に行ったときもたぶん調子は良くなかった。
8月、私が戻ったときだいぶ辛そうだった。
9月はほぼ2階で寝ていた。それでも、階段がリハビリになるから、と言っていた。
10月初め、介護ベッドが来た日は、直ぐにはベッドに来なかった。やっとベッドに寝て「極楽だ」と言っていた。
ずっと2階の布団で寝ていたけれど、強がっていたのだ。
10月の2週目、門から玄関までに手すりが付いた。結局父は手すりに触れることはなかった。
2週目、食事は減り、それまで導尿バルーンは自分で処理していたが私に申し訳なさそうに任せるようになった。プライドの高い父には辛いことだっただろう。
3週目。悪夢の風呂。
初めての訪問看護師さんが来る前日。風呂に入ろうとした。
風呂までは何とか歩けたが、入ってすぐに「出る」と。
そして歩けなかった。怖かった。175センチある父はガリガリだったけれど、私には支えることは出来なかった。
たぶんベッドに戻るまでに1時間はかかったと思う。
ベッドに生き絶え絶えでたどり着いた父の背中を母はずっと撫でていた。
それから数日後に私が朝起きると父は
「あんたが起きるのを一日千秋で待ってたよ。喉が渇いたんだ」
父は水を飲みに行くことも出来なくなっていた。
父は本当に寝たきりになってしまった。
11月、訪問医に胃ろうにしなければ父は餓死する、と言われた。父は望んではいない。医師を変えた。
折衷案で、と父を説得して中央静脈栄養のためのポートをつけた。たぶん父は不本意だったろう。
氷のみをやっと口にするようになった。
12月にはほとんど氷も食べなくなった。せんもうも出た。
中頃には浮腫みも出た。
12月の、終わりには肺に水が溜まるようになった。
結局私は父を溺れさせたのだ。
もうあかん、ダメだ。死にそうだ。もう十分だ
父はそう言っていた。
1月8日。私は眠っていた。
姉が私を起こしに来た。
パパが息をしていない。
泣きながら父を呼び、大好きだよ、ごめんなさいと伝えた。
私は無理やり父を引き止め過ぎた。父は黙って耐えてくれた。私のわがままに付き合ってくれたのだ。
それでも私にはこれっぽっちも覚悟が出来ていなかった。
葬式はいらない、と言う父にちょっとだけ逆らって、葬祭場を借りて、一晩父と過ごし、叔父、叔母、いとこ9人で父を見送った。
棺の中の父は、長年着ていたストライプのシャツと、6月に買って本の数回履いたユニクロのデニム、普段被っていた帽子を手にしていたが、髪型が…葬儀屋さんでカットされた髪は父なら絶対しない七三分けで…
それを見て変な話だが「父はもう居ないんだな」と覚ることができた。
夜、家の中外の写真をプリントしたものに父へのメッセージを書いた。父への感謝と謝罪とを。父の守ってくれた家の思い出を。
祭壇には父の作った仏像を飾り、写真を置いた。
そして父は骨になった。
父はやっと自由になった。
健康な体になり、新しい旅に出たのだ。
私はまだ父が恋しいけれど、父は充分私に付き合ってくれたのだ。父は本来の自分を取り戻したのだ。
本当に家族思いの優しい人だった。